7年前。言霊について書いた
★手が治るまでしばらくの間ブログは過去記事の再録、または過去に書いて保留にしてあった分をアップしていきます。これはずっと前から掲載をお約束していてなかなか果たせなかった愛知県の県立高校の入試問題に採用されたエッセイです。★
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インターネットは日常のものになりつつある。
世界中のサイトを見たり、電話やFAXよりも頻繁に携帯メールもふくめてメールを利用しているひとも少なくないだろう。
わたしが、デジタル・コミュニケーションという言い方でいいのだろうか、紙とペンを使わないコミュニケーションの世界を知ったのは、十数年前(*2003年当時)のパソコン通信の時代だった。当時はまだパソコンを持っているひとが少なかったこともあって、仕事にはなかなか使えなかったが、煩雑な紙を伴う作業がないだけ段取りがスムーズに運ぶ。将来ほとんどのひとがパソコンを持つようになったらどんなに楽になるだろう……わたしは考えていた。
そうしてその「将来」は十年経たないうちにやって来た。
今やパソコンは家電のひとつさえなって、せいぜいちょっと高い冷蔵庫くらいの値段で、当時とはくらべものにならない機能が山ほどついている。
急がない連絡なら、相手の時間をじゃまする電話より、メールの方がべんりだし、うれしい。いちいち図書館へ通わなくても、あらゆる資料がインターネットでさがせてしまう。長い間会えないでいる知人ともメールなら気軽に近況報告ができる。
ところが……わたしは、一時期パソコンを立ち上げるのが苦痛になってしまったことがある。
生まれも育ちも日本で、ずっと日本語を使ってきたはずなのに、パソコンのモニター上の文章が読んでも読んでも意味がわからないことがときどきある。たとえば「ごめんなさい」の一言さえ、ほんとうの気持ちなのか、反論されないための前置きなのか、自分を守るための方便なのか……わからなくて考え込むことが多くなった。
コピーライターとしての仕事は、短いキャッチフレーズに全部の気持ちをこめるトレーニングのようなものだ。逆にほかのひとの書いた文章を読むときも、言葉のひとつひとつと行間から相手の気持ちをできるだけ読みとろうと心がけている。
印刷されて世にでる言葉は、自分で推敲し、たくさんの人のチェックの目を通って、いわば多くのフィルターで濾過された水のようなものだ。たとえ個人の手紙だって、考え考えしながら選ばれた言葉が自分のチェックというフィルターを通ってでてくる。
でも、インターネットのホームページやメールでは、頭で考えた言葉がいきなり指先から出てきて一枚のフィルターすら通らないまま、Web(波)に乗ってしまう。
ある時期、仕事の関係でそうやって届いた言葉を大量に目にすることになった。
最初は「生の言葉」がおもしろかったものの、だんだん読むのが億劫になり、じきに苦痛に変わった。
一枚のフィルターも通さない感情の原形に近い言葉は、暴力的でさえある。
同じ言葉を自分で選んだ便箋に書いてもらったら、文字の形、余白の取り方などで、きっとちがう印象を持つのだろうと思うが、モニター上で見る限り、思いやりのかけらも感じられないことが多かった。
言葉にも魂がある、という意味で、日本には「言霊(ことだま)」という言葉がある。
パソコンのモニターに映し出された生の言葉から、清らかな言霊を見つけることがなかなかできない。とくにそうした言葉がならんでいるわけではないのに、不思議なことに怠惰、恨み、嫌悪などの世のなかや自分自身へのネガティブな感情が透けて見えることが多かった。
自分でも気づかなかったことだけれど、言葉にかかわる仕事を長くやってきたせいか、わたしは言霊=言葉のエネルギーを強く感じるようになったのかもしれない。
途中で放りだすわけにはいかないが、できればやめてしまいたい……毎日、苦痛を感じて頭をかかえていたわたしを救ってくれたのは、あるひとの言葉がきっかけだった。
(続く)
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